通勤ミュージック~0905102009/05/10 23:52:24

*ベートーヴェン:交響曲第1番・第5番(ケンペ/ミュンヘンpo)

久々復活、「もっとベートーヴェン交響曲全集」(爆)。
とりあえず昨年末に「第9三昧」で聴いた盤は完結させねば、てことでケンペ(次はコンヴィチュニーの予定)。

まずは1番。
1楽章の冒頭の1音から澄み渡った空気が支配。
特別なことをするのではなく、ただ誠実に音を紡いでいく。

青春の息吹きや若々しさが「現在進行形」として表出されるのではなく、老成した大人がじっくりと回顧するような感じ……と言えばいいだろうか。

例えば終楽章の主部への入りで丁寧に弾き込まれる弦。
若さや熱気を過剰に強調することなく、落ち着いた身振りなのが清々しい。

ベートーヴェンに限らず、他の作曲家の曲でもそうなのだけど、ケンペは出自(オーボエ奏者)ゆえか、常に木管が美しい。
この曲でも明るくサウンドする管楽器が印象的。

そして5番。
1楽章では乾いた響きの、ザクザクした肌触りに驚かされる。
運命動機の2回目のフェルマータを気持ちデクレッシェンドさせる技。
その中で引き立つオーボエのソロのたおやかさ(ここでも木管だ!)。
運命動機の2回目の後に、「慣例」のパウゼを置かないことによる切迫感。

2楽章、背後の低弦や管楽器の刻みがしっかりと弾き(吹き)こまれているのに感心。
とにかく清潔な佇まいに、聴いているこちらもシャンとする。
結尾のゆったりとした納め方がロマンティック……だけど漂う「懐かしさ」。

スケルツォはじっくりと進め、決して煽らない。
この楽章に内在する「ユーモア」を敢えて強調しない。
ひたすらまじめに向き合う。

当然、3~4楽章間のブリッジも、劇的効果を一切排除。
「暗→明」の転換が、演出でなく、自然に満ち溢れるものとして描かれる。

フィナーレにはある種の「軽み」さえ感じられる。
「軽薄さ」の「軽さ」ではもちろんなく、芭蕉の俳諧に置けるそれ、と言ったら大仰だろうか。

汗を飛び散らかした「勝利の凱歌」というよりも、どこまでも健やかな「喜びの歌」。
弦の旋回、FI.やPiccのオブリガートの身のこなし、音の粒立ちにそれがはっきりと見える。

何度聞いても飽きない5番、と言える。
一度聴いて(いい意味で)グッタリする演奏にこそ(フルトヴェングラーのドラマやクライバーの緊張感)この曲の真骨頂はあるとは言え、滋味に溢れたこの演奏も素晴らしいと思う。