マイナー曲で、何を魅せるのか。2010/05/30 02:34:33

*ベートーヴェン:ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための三重協奏曲、合唱幻想曲(ケーゲル/ドレスデン・フィル、レーゼル(P)、フンケ(Vn) 、ティム(Vc)、ライプツィヒ放送合唱団ほか)

トリプルコンチェルトと言えばやっぱりカラヤン盤なのだけど、それほど頻繁に聴くわけじゃない。
そしてこのケーゲルの音盤を聴いてまず思ったのは、「カラヤンの演奏ってどうだったっけ?」てこと。

ホントに「良い」演奏とはそういうものなのかもしれない。
他への広がり、関心や興味を喚起する。

曲へのストレートな共感を感じる。
気持ちよいほどまっすぐな表出。
この曲が持っている、サロン的な「軽さ」を楽しむ。

1楽章の掛け合いの妙。
2楽章のピュアな空気。
3楽章の愉悦。

これもケーゲル、あれもケーゲル。
奥が深い。

合唱幻想曲も同じ。
朗らかで笑顔なケーゲルがいる。

あまり「異形」の面ばかり強調してはいけないのだろうな。

悲しんでいる人々は幸いである。2010/05/26 02:32:18

*ブラームス:ドイツ・レクイエム(ケーゲル/ライプチヒ放送交響楽団、ハーゲンダー、ローレンツ、ライプツィヒ放送合唱団)

恥ずかしながらこの曲唯一の所有音盤。
楽曲自体はFMやテレビで何度か耳にしているのだけど。
だから、あまり多くを語れるほどの知識も経験もない。

その上での印象。
「謹厳実直」なブラームスとは違う、儚く繊細なブラームス。
聖書の「 悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるからである」という言葉が深々と心に響く。
先の管弦楽曲集でも感じたけど、ケーゲルの良さって、弱音の美しさにあるのでは?
この曲でも顕著。

やっぱり、他の音盤も聴いてみないとな。
そうするとまた違ったものが見えて来るだろうから。

デ・プロフンディス(=深き淵より)。2010/05/20 18:10:08

*ケーゲル/管弦楽小品集(ケーゲル/ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団)
・アルビノーニ(ジャゾット編):アダージョ
・グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」より“精霊の踊り”
・グリーグ:2つの悲しき旋律
・ヴォルフ=フェラーリ:歌劇「4人の田舎者」より間奏曲
・シベリウス:悲しきワルツ
・グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
・ムソルグスキー(R.コルサコフ編):歌劇「ホヴァンシチナ」第4幕間奏曲
・フランツ・シュミット:歌劇「ノートル・ダム」間奏曲
・レオンカヴァレロ:歌劇「道化師」間奏曲
・ファリャ:バレエ「恋は魔術師」より“火祭りの踊り”
・エルガー:威風堂々第1番
・ストラヴィンスキー:サーカス・ポルカ

昔から評判の高いケーゲルの小品集。やっと聴いた。

やはりアルビノーニのアダージョが圧倒的。
評判以上にコワイ演奏。身も世もないとは、まさにこのことか。
「悲しい」とか「憤り」とか言った概念すらここにはない。
絶望でさえ希望の対概念でしかないとすれば、ここにあるのは本当の無色透明の虚無。
主旋律の弦よりも、チェンバロとオルガンに耳を奪われる。
まるで鉛の棒を呑まされるように響く低弦。

気持ちゆっくりのテンポ、常に足元を「見えない何か」にわし掴みされているように不安げなフレーズ。

雨降りの出勤中に聴いて心危なくなるのだから、落ち込んで酒飲んでる時なんかに聴いたら、絶対あかん。
それくらい恐ろしい。

威風堂々のテンポ設定が異様過ぎる……しかしそれを必然であるかのように聴かせてしまう恐るべきケーゲル。(汗
繰り返される急加速と急減速。
普通なら、行進曲としてあるまじき姿。
でも受け狙いや効果を期待しているのではなく、何かに取り付かれたような鬼気迫る空気が支配する。
素っ気ないくらいサクサクと進む中間部。

サーカス・ポルカにおける「軍隊行進曲」の引用のグロテクスさ。
シニカルとはこういう事か。

他の曲も逸品。
特に2~5曲目で見せる透き通った美しさは、他では代えがたい。

異形のカルミナ。2010/05/18 22:26:24

*オルフ:カルミナ・ブラーナ(ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団&合唱団、ヴルピウス、ロッチュ、リーム、フーベンタール)

今までも書いたことあると思うけど、この曲が大好き。
音盤的には10種ちょいだから、数的にはほどほどだと思うけど。(苦笑
やっぱり何だかんだ言っても一番好きで返って行くのはヨッフム盤なのだけど(指揮・オケ・合唱・そしてソリスト!!の良さ)、色んなアプローチを許すところが、この曲の懐の深さと言うか、一筋縄では行かないところと言うか。

その意味からしても、この音盤はすごかった……。
恥ずかしながら、実はケーゲルの音盤を聴くのは初。

数年前に広島出張時に(爆)買ったカプリッチョのボックス(ベートーヴェンの全集など)があるのだけど、放置したまま。
それを差し置いて最近買ったこっちを先に聴くのだからどうかしている。(苦笑

さてケーゲルと言うと、彼の最後を知るから、どうしてもうがった聴き方をしてしまうのかもしれないけど、このカルミナは本当に今まで聴いたどの演奏とも「違う」異形のカルミナ。

バーバルで猥雑なのでもなく、「現代音楽の古典」としてスタイリッシュにまとめるのでもない。

抽象的な表現だけど、熱さの中にある奇妙に凍えた視点が、人間の営みをじっと醒めた目で見つめるギリシャ神のように感じる。
何と言うか、俯瞰目線で曲が進んで行く。

デフォルメに近いくらい、時々ある楽器の音が異様に強調されていてコワイ。
多くの演奏が慣習的にためるところを素っ気なく駆け抜けたり、パウゼを取らなかったりするのがまた、突き放した感じを強くする。
そして合唱団の暴力的なまでの巻き舌!!
演劇の「異化効果」ではないけど、安易な同化を拒絶する芯の強さがある。

“おお、運命の女神よ”の断ち切られたドラとシンバル。
“見よ、今や楽し”の“meno stacc.”の指示をこれほど生かした演奏があったか?
“春の楽しい面差しが”の冒頭、怪鳥のようなフルートとシロホン。

“踊り”の中間部、ためないフルートとティンパニ。
追い立てられるようなインテンポ。
左右から聴こえるヴァイオリンのソリの妙。
第1部クライマックス“たとえこの世界がみな”の冷ややかさ。
しかし突き放しているのではなく、どこか諦念のようなため息。

そして第2部はジワジワと猟奇な世界に近づく。
“昔は湖に住んでいた”のフルートのフラッター!
絶対零度の凍えた世界が眼前に広がる。
ファゴットもほとんどハルサイのノリ。
これじゃ白鳥、ローストではなく冷製料理だ。(笑
“ワシは僧院長さまじゃ”の横柄な歌唱。
俗っぽさをえぐみを持って描き出す。

そして“酒場に私がいる時は”。
酒への礼賛ではなく、酒飲みの愚劣さをあざ笑うかのよう。
酒飲みとしては冷や汗タラリ。(滝汗

そうすると第3部も単純な愛の世界ではなくなる、
さすがに第2部のような世界観ではなく、随所で「普通に」美しいのだけど、例えば“おいでおいで”から全く間を空けずに“天秤棒に心をかけて”へと入るその肩すかしに、ハッと胸を突かれる。
そして“今こそ愉悦の季節”の駆け足は、滅びへ至る快楽につんのめるかのよう。
だから、普通なら天上の星のようにきらめく“とても愛しい人”が、なぜかもの悲しく響く。
ソプラノが芸達者でないのがその空気を助長する。
当然“アヴェ、この上なく美しい女”では、達成感よりもむしろある種の寂寥感が支配しているように感じてしまう。

再び返ってくる“おお、運命の女神よ”。
普通なら、世俗の快楽やあれやこれも、結局運命の糸車の中で繰り広げられる堂々巡りなんだね、てな感じで「冒頭と同じもの」が返ってくるべきなのだろうけど、この演奏は違う。
昨日と同じ今日はなく、今日と同じ明日もない。
同じに見える日々も、運命という名の滅びへ向かう毎日。
……そこまで考えさせられてしまう。

これが50年近く前の音盤とはとても信じられないくらい、「今」という時代に通じる何かを示唆している、そんな気がする。

ケーゲル、ボックスも聴くぞ。(誓

レニー/NYPのブラームス。2010/04/20 01:33:20

*ブラームス:交響曲第1~4番、大学祝典序曲、悲劇的序曲(バーンスタイン/NYP)

Bernstein Centuryで揃えなおしたのを、久しぶりに何日かかけて聴いた。
やっぱり1番終楽章のハイテンションな追い込みは最高!
大学祝典も、そんな感じで行けばもっと面白いのになぁ。
最後の見栄きりはユニークなのにもったいない。

VPOとの演奏にも、外へ放出される「レニーらしさ」はあるのだけど、やはりそこはVPOで晩年。
もっと濃厚で重厚なものがある。
ひるがえってNYPとの演奏は、ある意味「聴き疲れ」するくらい威勢の良いエネルギーの放出が特徴的。

こぢんまりとまとめる演奏もしばしばある3番。
レニーはいつもエネルギッシュ。
後年のBRSO(名演!!)やVPOとの音盤に、「楽曲として」軍配を上げるのは仕方ないけれど、どっこい、NYP盤も捨てがたい。
「この曲は地味やない。パワフルなんやー!」と声高に主張しているような演奏。
……なぜ大阪弁なの、てのはつっこまないで。(笑

「悲劇的」や4番もそう。
グッと涙をこらえるのではなく、とにかく大泣き(これは後年もそうだけど)。
ブラームスが言った「白いハンカチを用意して聴いて欲しい」の言葉が吹っ飛ぶ。
てか、これじゃハンカチびしょびしょですわ。(笑

後年につながるなぁ、と改めて再発見したのは2番。
レニーはこの曲を、意外なほどにいつも「カチッと穏やかに」まとめる。
それこそイケイケドンドンなのか、と予想される終楽章は、決して煽らない。
たぶん、そういう曲として捉えていなかったんだろう。
とは言え、後のVPOのまろやかなコクとは違う硬質なNYPの金管が、この曲ではある種の力感を生んでいるのも事実。
テンポではなく「音」で盛り上げの勝負するというのを、見せつけられた感じ。
以前聴いたときより、好きになった。

こういう事があるから、時間をおいて再聴する楽しみがある。
盤キチのサガですな。(苦笑