通勤ミュージック~1002282010/02/28 14:12:50

*ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」・「レオノーレ」序曲第3番、歌劇「フィデリオ」序曲、序曲「コリオラン」(コンヴィチュニー/ライプチヒ・ゲヴァントハウスo.)

何度かここでも書いているけど、「田園」って難しい曲だなぁといつも感じる。
普通に演奏するだけじゃ平板(単調?)になるし、手練手管を施しすぎたらいびつになってこの曲の良さをぶち壊すし。

どんな曲だってそうだ、と言われればそうなんだけど、真水のようなピュアさ、が神髄(だと思う)のこの曲においてはそれが顕著。

そして、さすがのコンヴィチュニーも、これまでの5曲のように新鮮な驚きをもった「田園」像を見せるには至っていないと正直思う。
しかし、やっぱりそれでもこれまで同様、あくまで真摯に楽曲に対峙する姿勢が、くっきりとこの曲の「あるがまま」のフォルムを描いている。
各楽章の表題性からは若干遠いスタイルだと感じるけど、むしろその方が向いてるのかも。

木管楽器のいささかひなびた感じが印象的な1楽章。
流麗ではないかもしれないが、かといって無骨なわけでもないバランス感。
2楽章は小川のゆったりおっとりとした流れが心地よい。
そしてやっぱりひなびた鳥たちの呼び交わし。
3楽章の踊りや4楽章の嵐にはもう少し遊びというか演出があってもいいなぁと感じるけど、まあ筋違いのお願いか。

終楽章では逆にその「演出のなさ」が、どこまでも誠実な“祈り”の音楽を紡ぐ。
立体的なホルンの響きに、自然に耳をそばだてさせられる。
最後の締めもホルンが素晴らしく、ゲシュトップの音色が天恵のように響く。
そしてコンヴィチュニーにしては意外なほどに大きな呼吸を伴ったリタルダンドで幕を引く。

フィルアップは序曲3つ。
「レオノーレ」3番って、“いかにもベートーヴェン”のエキスがギュッと凝縮されているので、聴く度に「小さな交響曲」だなぁと感じるし、どちらかと言えばそういう解釈の方が好き(例えばフルトヴェングラーは何度聴いても心震える)。
とは言え、コンヴィチュニーのような“自然体”だって傾聴できる。
オペラの中の一場面(まさに終幕前に挿入されるあの演出)というより、一つの演奏会用序曲のように。
手に汗握りはしないけど、じんと胸を満たす感じ。

しかし、むしろ強い印象を残すのは「フィデリオ」。
こちらは一転、それこそ“幕開け”にふさわしい覇気に満ちた演奏。
目を見張るような前進性。
冒頭主題が繰り返されるたびに自然と加速するその呼吸感。

「コリオラン」は質実剛健。
良い意味で生真面目さが曲想に合致している。