異形のカルミナ。2010/05/18 22:26:24

*オルフ:カルミナ・ブラーナ(ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団&合唱団、ヴルピウス、ロッチュ、リーム、フーベンタール)

今までも書いたことあると思うけど、この曲が大好き。
音盤的には10種ちょいだから、数的にはほどほどだと思うけど。(苦笑
やっぱり何だかんだ言っても一番好きで返って行くのはヨッフム盤なのだけど(指揮・オケ・合唱・そしてソリスト!!の良さ)、色んなアプローチを許すところが、この曲の懐の深さと言うか、一筋縄では行かないところと言うか。

その意味からしても、この音盤はすごかった……。
恥ずかしながら、実はケーゲルの音盤を聴くのは初。

数年前に広島出張時に(爆)買ったカプリッチョのボックス(ベートーヴェンの全集など)があるのだけど、放置したまま。
それを差し置いて最近買ったこっちを先に聴くのだからどうかしている。(苦笑

さてケーゲルと言うと、彼の最後を知るから、どうしてもうがった聴き方をしてしまうのかもしれないけど、このカルミナは本当に今まで聴いたどの演奏とも「違う」異形のカルミナ。

バーバルで猥雑なのでもなく、「現代音楽の古典」としてスタイリッシュにまとめるのでもない。

抽象的な表現だけど、熱さの中にある奇妙に凍えた視点が、人間の営みをじっと醒めた目で見つめるギリシャ神のように感じる。
何と言うか、俯瞰目線で曲が進んで行く。

デフォルメに近いくらい、時々ある楽器の音が異様に強調されていてコワイ。
多くの演奏が慣習的にためるところを素っ気なく駆け抜けたり、パウゼを取らなかったりするのがまた、突き放した感じを強くする。
そして合唱団の暴力的なまでの巻き舌!!
演劇の「異化効果」ではないけど、安易な同化を拒絶する芯の強さがある。

“おお、運命の女神よ”の断ち切られたドラとシンバル。
“見よ、今や楽し”の“meno stacc.”の指示をこれほど生かした演奏があったか?
“春の楽しい面差しが”の冒頭、怪鳥のようなフルートとシロホン。

“踊り”の中間部、ためないフルートとティンパニ。
追い立てられるようなインテンポ。
左右から聴こえるヴァイオリンのソリの妙。
第1部クライマックス“たとえこの世界がみな”の冷ややかさ。
しかし突き放しているのではなく、どこか諦念のようなため息。

そして第2部はジワジワと猟奇な世界に近づく。
“昔は湖に住んでいた”のフルートのフラッター!
絶対零度の凍えた世界が眼前に広がる。
ファゴットもほとんどハルサイのノリ。
これじゃ白鳥、ローストではなく冷製料理だ。(笑
“ワシは僧院長さまじゃ”の横柄な歌唱。
俗っぽさをえぐみを持って描き出す。

そして“酒場に私がいる時は”。
酒への礼賛ではなく、酒飲みの愚劣さをあざ笑うかのよう。
酒飲みとしては冷や汗タラリ。(滝汗

そうすると第3部も単純な愛の世界ではなくなる、
さすがに第2部のような世界観ではなく、随所で「普通に」美しいのだけど、例えば“おいでおいで”から全く間を空けずに“天秤棒に心をかけて”へと入るその肩すかしに、ハッと胸を突かれる。
そして“今こそ愉悦の季節”の駆け足は、滅びへ至る快楽につんのめるかのよう。
だから、普通なら天上の星のようにきらめく“とても愛しい人”が、なぜかもの悲しく響く。
ソプラノが芸達者でないのがその空気を助長する。
当然“アヴェ、この上なく美しい女”では、達成感よりもむしろある種の寂寥感が支配しているように感じてしまう。

再び返ってくる“おお、運命の女神よ”。
普通なら、世俗の快楽やあれやこれも、結局運命の糸車の中で繰り広げられる堂々巡りなんだね、てな感じで「冒頭と同じもの」が返ってくるべきなのだろうけど、この演奏は違う。
昨日と同じ今日はなく、今日と同じ明日もない。
同じに見える日々も、運命という名の滅びへ向かう毎日。
……そこまで考えさせられてしまう。

これが50年近く前の音盤とはとても信じられないくらい、「今」という時代に通じる何かを示唆している、そんな気がする。

ケーゲル、ボックスも聴くぞ。(誓