モダンなバロック。2009/01/07 17:12:47

なんとなくすっきりしたモノが聴きたくなり、年末に買った中から、バッハの「音楽の捧げもの」をチョイス。

リヒター、ニコレ、ビュヒナー、グントナー、マイネッケ、キスカルト、ビルグラムという7人の演奏。
リヒターは奏者としてはチェンバロを少し弾いているだけ。
しかし、この50分弱にみなぎる「リヒターらしさ」!
全体の目配り(指揮)をしているのから当然といえばそうなのだけど、人数が少ないだけに一層その感を強くする。
聴いているこちらの背筋がピンと伸びる。

かといって窮屈であったり、理屈っぽかったりするわけではない。
最初のリチェルカーレから最後まで、「行程が見えている」と言えばいいのだろうか、王の主題が常に目に見えるように聴こえてくる。
フーガやカノンなら当たり前といえばそうなのかもしれないけど、そう出来ている演奏って意外とないんじゃないか?
リヒターのバッハやヘンデルとかが今でも大事に聴き継がれている(よね?)のは、そういったところがキモなんだと思う。

ボクがクラシックにドンドンはまっていった中高生のころに、ちょうど古楽器のブームが来て、モダン楽器のバロック(古典派さえ?)なんて、まるで無知な行為であるかのようなムードがあったけど、個人的にはどうもなじめなかった。
そのせいか、棚を見渡してもほとんど古楽器の音盤ってない(それはそれで不勉強だとは思うけど)。

結局そのムードも一時のもので、今はその考察をモダン楽器にも取り入れつつ……なんて感じが主流になっているので、あの頃頭でっかちにならなかったのは正解だったのだろうか。(苦笑

もちろん学問としての奏法研究や楽譜の考察というのはすごく大事で、決して無駄なものではないのだけど、結局のところ、「聴き手」である我々にとっては、「そこから何を見せて(=魅せて)くれるか」が大事なわけ。
要は精神論になるんだろうけど、「つまらんものはいらん」わけですよ。

だから、繰り返しになるけれど、リヒターやミュンヒンガーが作っていたものって、少なくともボクにとっては全然色あせていないし大事なものばかり。
もっと踏み込んでいけば、ストコフスキーのバッハってどうよ、という話にもなるし、メンゲルベルクのマタイは、てことにも通じる。

なーんて事を書きながら、次にレニーのヴィヴァルディの協奏曲集を聴いてると、「四季」でレニーがチェンバロをド派手にノリノリで装飾しているのが耳に飛び込んできて、これこそ「ムジツィーレン」だなぁーと、思わず笑ってしまったのだった。

「面白ければいいやん」「楽しければいいやん」と言い切ることの強さ。
もちろん楽曲の持つ性格にもよるから、どれでもそれが正しいとは言えないけれど。
「考えない音楽」は良くないけれど「考えすぎる音楽」はもっと良くないよな、てことか。

……なんだかとりとめなくなってしまった。反省。

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