通勤ミュージック~091120 ― 2009/11/20 17:45:33

ここ数日、なぜか「展覧会の絵」モード。
*ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」<オリジナル版>(アシュケナージ)、同<管弦楽版・アシュケナージ編>(アシュケナージ/PO)、
ピアノ版は純水のような美しさ。
最初のプロムナードから、磨かれた音の粒にハッとさせられる。
この曲へのこだわりが音を通じて伝わってくる、積極的な楽曲の運び。
もちろんアシュケナージだから決して力任せや技量のひけらかしには決してならないけど、それでも“ビドロ”なんかは、きれい事ではない迫力を持って迫ってくる。
でも、何より凄いのは自身編曲のオケ版。
昔から知ってたけど、この年まで聴かないまま過ごしてきた。
……なんて勿体ないことをしたのか!!
ラヴェル版より、ロシア的な泥臭さや、友を失った寂寥が強調されているのが良い。
特に後者はこの曲の必須の要素だと思うけど、ラヴェル版で満足させてくれる演奏に出会ったことがないから。
考えてみれば当たり前だった。
ラヴェルは端からそんなこと興味ないんだから。
ムソルグスキーの音を素材としてどう生かすか、に一番心を砕いたのだから。
だからこそプロムナードも1曲省いちゃうし、音の間違い(サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ)もそのままだし。
最初こそ、Tp.のユニゾンで始まり、「あまりアレンジ差がないかな……」なんて感じるけど、徐々にオリジナリティを見せていく。
確かに“古城”にはゾクゾクするほどセクシーなサックスも良いだろう、でも、コール・アングレの抑えた筆致もまた、惻々とした墨色で美しいのだ。
そして何より原曲の強弱を忠実に守った編曲。
その圧巻が「ビドロ」。
ロシア農民の憤懣と絶望もかくや、と言わんばかりの強奏で始まり、まさにリアルに「鞭」打たれる。これを聴いた後では、ラヴェル版の牛はお散歩にしか聞こえない。(言い過ぎ??
ラヴェル版でカットされた、1曲目と同じ調のプロムナード。
「同じ」であることが、いくつも絵を見てきた後にもう一度立ち止まって一息つく姿が(=入場してきたときのように)目に浮かぶけれど、もうすでにその時の自分は最初の自分とは違っている……何て深いところまで想像(=妄想?)させる、そのプロムナードの意義。
そして文句なしに素晴らしいのがラスト「キエフの大門」。
ラヴェル版のような音の饗宴はなく、入りも最初は肩すかしなくらい地味。
しかしその静けさは次第次第に祈りを込めた熱へと変貌していく。
特に中間におけるクラリネットのため息のひとりごちは、絵を通じて亡き友と向かい合うムソルグスキーの姿が、そしてそのムソルグスキーと真摯に向かい合うアシュケナージ自身の姿が二重写しになって見えてきて、思わずウルッと来る。
最後はもちろん、音量的には大きく盛り上がって終わるのだけど、それが煌びやかになるのではなく、どこまでも澄み切ったまま音量を増していくので、まったくうるささを感じない。
敢えて言おう。
もっともっと、アシュケナージ版は演奏されるべきだと思う。
心からそう思う。
*同<ピアノ版・ホロヴィッツ校訂>(ホロヴィッツ)
こちらも古くからの名盤。
しかし、上記のアシュケナージ2題とは、全く真逆のアプローチ。
いわば、ラヴェル版を逆にピアノ版にしたような華やかさ。
強靱な打鍵、でもその中に色っぽく艶めく歌心。
“殻をつけたひなの踊り”の最後のルバートなんて、やりすぎギリギリのところで見せる、まさにエンターテインメント。
バーバ・ヤガやキエフなんて、とてもピアノとは思えない(更に言えばモノラルとは思えない)音量と迫力。
ピアノが壊れないのか心配になるくらい。
まさに、「速くて」「大きくて」「華麗な」ことが正義だった時代の演奏だなぁと、呆気にとられながらも、思わず引き込まれる。
好きかどうか、と言われるとたぶんアシュケナージの方に軍配を上げるけど、それはイコールどちらかが正しいかでは決してない。
むしろ、ここまでやり切っているホロヴィッツも一つの「正しさ」なんだろう。
有無を言わせぬ、ねじ伏せられるような説得力。
それはきっと、今という時代には希薄なものなんだろうけど(アルゲリッチにはそれに近いものを感じるけど)。
*ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」<オリジナル版>(アシュケナージ)、同<管弦楽版・アシュケナージ編>(アシュケナージ/PO)、
ピアノ版は純水のような美しさ。
最初のプロムナードから、磨かれた音の粒にハッとさせられる。
この曲へのこだわりが音を通じて伝わってくる、積極的な楽曲の運び。
もちろんアシュケナージだから決して力任せや技量のひけらかしには決してならないけど、それでも“ビドロ”なんかは、きれい事ではない迫力を持って迫ってくる。
でも、何より凄いのは自身編曲のオケ版。
昔から知ってたけど、この年まで聴かないまま過ごしてきた。
……なんて勿体ないことをしたのか!!
ラヴェル版より、ロシア的な泥臭さや、友を失った寂寥が強調されているのが良い。
特に後者はこの曲の必須の要素だと思うけど、ラヴェル版で満足させてくれる演奏に出会ったことがないから。
考えてみれば当たり前だった。
ラヴェルは端からそんなこと興味ないんだから。
ムソルグスキーの音を素材としてどう生かすか、に一番心を砕いたのだから。
だからこそプロムナードも1曲省いちゃうし、音の間違い(サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ)もそのままだし。
最初こそ、Tp.のユニゾンで始まり、「あまりアレンジ差がないかな……」なんて感じるけど、徐々にオリジナリティを見せていく。
確かに“古城”にはゾクゾクするほどセクシーなサックスも良いだろう、でも、コール・アングレの抑えた筆致もまた、惻々とした墨色で美しいのだ。
そして何より原曲の強弱を忠実に守った編曲。
その圧巻が「ビドロ」。
ロシア農民の憤懣と絶望もかくや、と言わんばかりの強奏で始まり、まさにリアルに「鞭」打たれる。これを聴いた後では、ラヴェル版の牛はお散歩にしか聞こえない。(言い過ぎ??
ラヴェル版でカットされた、1曲目と同じ調のプロムナード。
「同じ」であることが、いくつも絵を見てきた後にもう一度立ち止まって一息つく姿が(=入場してきたときのように)目に浮かぶけれど、もうすでにその時の自分は最初の自分とは違っている……何て深いところまで想像(=妄想?)させる、そのプロムナードの意義。
そして文句なしに素晴らしいのがラスト「キエフの大門」。
ラヴェル版のような音の饗宴はなく、入りも最初は肩すかしなくらい地味。
しかしその静けさは次第次第に祈りを込めた熱へと変貌していく。
特に中間におけるクラリネットのため息のひとりごちは、絵を通じて亡き友と向かい合うムソルグスキーの姿が、そしてそのムソルグスキーと真摯に向かい合うアシュケナージ自身の姿が二重写しになって見えてきて、思わずウルッと来る。
最後はもちろん、音量的には大きく盛り上がって終わるのだけど、それが煌びやかになるのではなく、どこまでも澄み切ったまま音量を増していくので、まったくうるささを感じない。
敢えて言おう。
もっともっと、アシュケナージ版は演奏されるべきだと思う。
心からそう思う。
*同<ピアノ版・ホロヴィッツ校訂>(ホロヴィッツ)
こちらも古くからの名盤。
しかし、上記のアシュケナージ2題とは、全く真逆のアプローチ。
いわば、ラヴェル版を逆にピアノ版にしたような華やかさ。
強靱な打鍵、でもその中に色っぽく艶めく歌心。
“殻をつけたひなの踊り”の最後のルバートなんて、やりすぎギリギリのところで見せる、まさにエンターテインメント。
バーバ・ヤガやキエフなんて、とてもピアノとは思えない(更に言えばモノラルとは思えない)音量と迫力。
ピアノが壊れないのか心配になるくらい。
まさに、「速くて」「大きくて」「華麗な」ことが正義だった時代の演奏だなぁと、呆気にとられながらも、思わず引き込まれる。
好きかどうか、と言われるとたぶんアシュケナージの方に軍配を上げるけど、それはイコールどちらかが正しいかでは決してない。
むしろ、ここまでやり切っているホロヴィッツも一つの「正しさ」なんだろう。
有無を言わせぬ、ねじ伏せられるような説得力。
それはきっと、今という時代には希薄なものなんだろうけど(アルゲリッチにはそれに近いものを感じるけど)。
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