通勤ミュージック~091104 ― 2009/11/04 18:36:12
*ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」序曲、バーンスタイン:「キャンディード」序曲、ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、ブラームス:大学祝典序曲(以上バーンスタイン/ボストン・ポップス)、マーラー:交響曲第10番1楽章(バーンスタイン/VPO)
CD-Rの青盤。
最後の1曲以外は、本来ボストン・ポップスの自主製作盤で出ているもの。
現物が欲しいのだけど、たまーにヤフオクなんかで出てくると、ビックリするような値段になっており、いつも断念。
その意味でこの音盤は、途中のスピーチなんかはカットされているけど、曲が聴けるだけでもありがたい。
もちろん海賊盤の是非、という意見はあるのだけど、それはこの際置いておいて。
どの曲も、会場に満ちた「くだけた空気」そのものが伝わってくるかのような演奏。
かといってもちろん手抜きなのではなく、むしろ「そういう空気感」だからこそ、レニーの溌剌さが直接響いてくる、といった方が適切。
例えばロッシーニ、最後の加速とラストに被さる拍手。
普通なら「フライング拍手!」なんて悪し様に言われるだろうけど、「逆にそれがいいやん」て感じ。
キャンディード、どちらかと言えば、軽く流しているのだけれど、居並ぶベタな名曲たちに比してまったく負けないその存在感に感動する。(身びいき??
マイスタージンガーは、あっけらかんとした開けっぴろげな歌わせ方。
質実な感じではなく、滔々とした広い流れというよりサクサクした歩みが印象的。
大学祝典序曲では、NYP盤のような最後の“ど”タメ(笑)はなし。
またまた終結前から拍手しちゃうお客にこちらももう笑うしかない。
唯一残念なのは、途中のスピーチが半分も理解できないこと。
お客もめっちゃ笑ってるのに。
ああ、もっと英語が分かればなぁ。(苦笑
フィルアップのマーラー。
DG盤やSONY盤よりもちょっぴり後年の録音。
この曲聴くのもずいぶん久しぶり。
ていうか、レニー盤しか持っていないのだが。(汗
身をよじるほどに美しく、それでいて痛切な叫びに満ちている。
発狂寸前のところで踏みとどまる、その残酷なまでの美しさ。
やっぱ全曲盤も後学のために聴かねばダメかな。
CD-Rの青盤。
最後の1曲以外は、本来ボストン・ポップスの自主製作盤で出ているもの。
現物が欲しいのだけど、たまーにヤフオクなんかで出てくると、ビックリするような値段になっており、いつも断念。
その意味でこの音盤は、途中のスピーチなんかはカットされているけど、曲が聴けるだけでもありがたい。
もちろん海賊盤の是非、という意見はあるのだけど、それはこの際置いておいて。
どの曲も、会場に満ちた「くだけた空気」そのものが伝わってくるかのような演奏。
かといってもちろん手抜きなのではなく、むしろ「そういう空気感」だからこそ、レニーの溌剌さが直接響いてくる、といった方が適切。
例えばロッシーニ、最後の加速とラストに被さる拍手。
普通なら「フライング拍手!」なんて悪し様に言われるだろうけど、「逆にそれがいいやん」て感じ。
キャンディード、どちらかと言えば、軽く流しているのだけれど、居並ぶベタな名曲たちに比してまったく負けないその存在感に感動する。(身びいき??
マイスタージンガーは、あっけらかんとした開けっぴろげな歌わせ方。
質実な感じではなく、滔々とした広い流れというよりサクサクした歩みが印象的。
大学祝典序曲では、NYP盤のような最後の“ど”タメ(笑)はなし。
またまた終結前から拍手しちゃうお客にこちらももう笑うしかない。
唯一残念なのは、途中のスピーチが半分も理解できないこと。
お客もめっちゃ笑ってるのに。
ああ、もっと英語が分かればなぁ。(苦笑
フィルアップのマーラー。
DG盤やSONY盤よりもちょっぴり後年の録音。
この曲聴くのもずいぶん久しぶり。
ていうか、レニー盤しか持っていないのだが。(汗
身をよじるほどに美しく、それでいて痛切な叫びに満ちている。
発狂寸前のところで踏みとどまる、その残酷なまでの美しさ。
やっぱ全曲盤も後学のために聴かねばダメかな。
映画音楽。 ― 2009/11/12 01:39:59
*ジョン・ウィリアムズ・グレイテスト・ヒッツ 1969-1999
2枚組、全28曲。時々聴いている。
いつもは好きな曲ばかりつまみ食いなのだけど、久しぶりに全曲を通して聴いてみて、ふと感じたこと。
まさに今のこの時代、クラシック音楽の重要な需要であった「機会音楽」の系譜を継いでいるのは、映画音楽ではないか?
オペラやバレエ、あるいはオラトリオ、もちろん器楽曲でも、「求められた」需要に応えて作られた楽曲作者としての“職業音楽家=職人”の仕事が本来は出自だったわけで。
ロマン派以降の「自己表現」としての作曲、はもちろん自立芸術としての音楽の価値を高めたと思うけど、それが20世紀に至り一部袋小路(orマッチポンプ?)に入ったのは周知の通り。
……それを打破したのはストラヴィンスキーだと思うけど。
「求められる」音楽に的確に応じ、質(=作家の良心?)と量(=大衆の満足?)を共に満足させる職人的技量。
作品を邪魔してもダメだし、印象を残さないのもダメ。
「スター・ウォーズ」における旋律は、常にライトモティーフ。
エピソード1「ファントム・メナス」のエンドロールの最後の最後に「帝国のテーマ(=ダース・ヴェイダーのテーマ)」が小さく小さくクラリネットで流れたときは鳥肌が立った。
同じくスター・ウォーズでは、新3部作で登場し新曲「運命の闘い」が印象深い。
古くは受難曲、あるいはカルミナ・ブラーナを彷彿とさせる「声」の力!!
そんな難しいことはさておき、恐らく最も分かりやすいのは、例えば「セヴン・イヤーズ・イン・チベット」のメーンテーマ。
ヨーヨー・マの弾くそれは、まさに「チェロ協奏曲」の身振り。
あと「遙かなる大地」と「シンドラーのリスト」におけるヴァイオリンもそう。
パールマンの演奏は、こっそりヴァイオリン協奏曲に紛れ込ませても分からない。
2枚組、全28曲。時々聴いている。
いつもは好きな曲ばかりつまみ食いなのだけど、久しぶりに全曲を通して聴いてみて、ふと感じたこと。
まさに今のこの時代、クラシック音楽の重要な需要であった「機会音楽」の系譜を継いでいるのは、映画音楽ではないか?
オペラやバレエ、あるいはオラトリオ、もちろん器楽曲でも、「求められた」需要に応えて作られた楽曲作者としての“職業音楽家=職人”の仕事が本来は出自だったわけで。
ロマン派以降の「自己表現」としての作曲、はもちろん自立芸術としての音楽の価値を高めたと思うけど、それが20世紀に至り一部袋小路(orマッチポンプ?)に入ったのは周知の通り。
……それを打破したのはストラヴィンスキーだと思うけど。
「求められる」音楽に的確に応じ、質(=作家の良心?)と量(=大衆の満足?)を共に満足させる職人的技量。
作品を邪魔してもダメだし、印象を残さないのもダメ。
「スター・ウォーズ」における旋律は、常にライトモティーフ。
エピソード1「ファントム・メナス」のエンドロールの最後の最後に「帝国のテーマ(=ダース・ヴェイダーのテーマ)」が小さく小さくクラリネットで流れたときは鳥肌が立った。
同じくスター・ウォーズでは、新3部作で登場し新曲「運命の闘い」が印象深い。
古くは受難曲、あるいはカルミナ・ブラーナを彷彿とさせる「声」の力!!
そんな難しいことはさておき、恐らく最も分かりやすいのは、例えば「セヴン・イヤーズ・イン・チベット」のメーンテーマ。
ヨーヨー・マの弾くそれは、まさに「チェロ協奏曲」の身振り。
あと「遙かなる大地」と「シンドラーのリスト」におけるヴァイオリンもそう。
パールマンの演奏は、こっそりヴァイオリン協奏曲に紛れ込ませても分からない。
通勤ミュージック~091120 ― 2009/11/20 17:45:33
ここ数日、なぜか「展覧会の絵」モード。
*ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」<オリジナル版>(アシュケナージ)、同<管弦楽版・アシュケナージ編>(アシュケナージ/PO)、
ピアノ版は純水のような美しさ。
最初のプロムナードから、磨かれた音の粒にハッとさせられる。
この曲へのこだわりが音を通じて伝わってくる、積極的な楽曲の運び。
もちろんアシュケナージだから決して力任せや技量のひけらかしには決してならないけど、それでも“ビドロ”なんかは、きれい事ではない迫力を持って迫ってくる。
でも、何より凄いのは自身編曲のオケ版。
昔から知ってたけど、この年まで聴かないまま過ごしてきた。
……なんて勿体ないことをしたのか!!
ラヴェル版より、ロシア的な泥臭さや、友を失った寂寥が強調されているのが良い。
特に後者はこの曲の必須の要素だと思うけど、ラヴェル版で満足させてくれる演奏に出会ったことがないから。
考えてみれば当たり前だった。
ラヴェルは端からそんなこと興味ないんだから。
ムソルグスキーの音を素材としてどう生かすか、に一番心を砕いたのだから。
だからこそプロムナードも1曲省いちゃうし、音の間違い(サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ)もそのままだし。
最初こそ、Tp.のユニゾンで始まり、「あまりアレンジ差がないかな……」なんて感じるけど、徐々にオリジナリティを見せていく。
確かに“古城”にはゾクゾクするほどセクシーなサックスも良いだろう、でも、コール・アングレの抑えた筆致もまた、惻々とした墨色で美しいのだ。
そして何より原曲の強弱を忠実に守った編曲。
その圧巻が「ビドロ」。
ロシア農民の憤懣と絶望もかくや、と言わんばかりの強奏で始まり、まさにリアルに「鞭」打たれる。これを聴いた後では、ラヴェル版の牛はお散歩にしか聞こえない。(言い過ぎ??
ラヴェル版でカットされた、1曲目と同じ調のプロムナード。
「同じ」であることが、いくつも絵を見てきた後にもう一度立ち止まって一息つく姿が(=入場してきたときのように)目に浮かぶけれど、もうすでにその時の自分は最初の自分とは違っている……何て深いところまで想像(=妄想?)させる、そのプロムナードの意義。
そして文句なしに素晴らしいのがラスト「キエフの大門」。
ラヴェル版のような音の饗宴はなく、入りも最初は肩すかしなくらい地味。
しかしその静けさは次第次第に祈りを込めた熱へと変貌していく。
特に中間におけるクラリネットのため息のひとりごちは、絵を通じて亡き友と向かい合うムソルグスキーの姿が、そしてそのムソルグスキーと真摯に向かい合うアシュケナージ自身の姿が二重写しになって見えてきて、思わずウルッと来る。
最後はもちろん、音量的には大きく盛り上がって終わるのだけど、それが煌びやかになるのではなく、どこまでも澄み切ったまま音量を増していくので、まったくうるささを感じない。
敢えて言おう。
もっともっと、アシュケナージ版は演奏されるべきだと思う。
心からそう思う。
*同<ピアノ版・ホロヴィッツ校訂>(ホロヴィッツ)
こちらも古くからの名盤。
しかし、上記のアシュケナージ2題とは、全く真逆のアプローチ。
いわば、ラヴェル版を逆にピアノ版にしたような華やかさ。
強靱な打鍵、でもその中に色っぽく艶めく歌心。
“殻をつけたひなの踊り”の最後のルバートなんて、やりすぎギリギリのところで見せる、まさにエンターテインメント。
バーバ・ヤガやキエフなんて、とてもピアノとは思えない(更に言えばモノラルとは思えない)音量と迫力。
ピアノが壊れないのか心配になるくらい。
まさに、「速くて」「大きくて」「華麗な」ことが正義だった時代の演奏だなぁと、呆気にとられながらも、思わず引き込まれる。
好きかどうか、と言われるとたぶんアシュケナージの方に軍配を上げるけど、それはイコールどちらかが正しいかでは決してない。
むしろ、ここまでやり切っているホロヴィッツも一つの「正しさ」なんだろう。
有無を言わせぬ、ねじ伏せられるような説得力。
それはきっと、今という時代には希薄なものなんだろうけど(アルゲリッチにはそれに近いものを感じるけど)。
*ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」<オリジナル版>(アシュケナージ)、同<管弦楽版・アシュケナージ編>(アシュケナージ/PO)、
ピアノ版は純水のような美しさ。
最初のプロムナードから、磨かれた音の粒にハッとさせられる。
この曲へのこだわりが音を通じて伝わってくる、積極的な楽曲の運び。
もちろんアシュケナージだから決して力任せや技量のひけらかしには決してならないけど、それでも“ビドロ”なんかは、きれい事ではない迫力を持って迫ってくる。
でも、何より凄いのは自身編曲のオケ版。
昔から知ってたけど、この年まで聴かないまま過ごしてきた。
……なんて勿体ないことをしたのか!!
ラヴェル版より、ロシア的な泥臭さや、友を失った寂寥が強調されているのが良い。
特に後者はこの曲の必須の要素だと思うけど、ラヴェル版で満足させてくれる演奏に出会ったことがないから。
考えてみれば当たり前だった。
ラヴェルは端からそんなこと興味ないんだから。
ムソルグスキーの音を素材としてどう生かすか、に一番心を砕いたのだから。
だからこそプロムナードも1曲省いちゃうし、音の間違い(サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ)もそのままだし。
最初こそ、Tp.のユニゾンで始まり、「あまりアレンジ差がないかな……」なんて感じるけど、徐々にオリジナリティを見せていく。
確かに“古城”にはゾクゾクするほどセクシーなサックスも良いだろう、でも、コール・アングレの抑えた筆致もまた、惻々とした墨色で美しいのだ。
そして何より原曲の強弱を忠実に守った編曲。
その圧巻が「ビドロ」。
ロシア農民の憤懣と絶望もかくや、と言わんばかりの強奏で始まり、まさにリアルに「鞭」打たれる。これを聴いた後では、ラヴェル版の牛はお散歩にしか聞こえない。(言い過ぎ??
ラヴェル版でカットされた、1曲目と同じ調のプロムナード。
「同じ」であることが、いくつも絵を見てきた後にもう一度立ち止まって一息つく姿が(=入場してきたときのように)目に浮かぶけれど、もうすでにその時の自分は最初の自分とは違っている……何て深いところまで想像(=妄想?)させる、そのプロムナードの意義。
そして文句なしに素晴らしいのがラスト「キエフの大門」。
ラヴェル版のような音の饗宴はなく、入りも最初は肩すかしなくらい地味。
しかしその静けさは次第次第に祈りを込めた熱へと変貌していく。
特に中間におけるクラリネットのため息のひとりごちは、絵を通じて亡き友と向かい合うムソルグスキーの姿が、そしてそのムソルグスキーと真摯に向かい合うアシュケナージ自身の姿が二重写しになって見えてきて、思わずウルッと来る。
最後はもちろん、音量的には大きく盛り上がって終わるのだけど、それが煌びやかになるのではなく、どこまでも澄み切ったまま音量を増していくので、まったくうるささを感じない。
敢えて言おう。
もっともっと、アシュケナージ版は演奏されるべきだと思う。
心からそう思う。
*同<ピアノ版・ホロヴィッツ校訂>(ホロヴィッツ)
こちらも古くからの名盤。
しかし、上記のアシュケナージ2題とは、全く真逆のアプローチ。
いわば、ラヴェル版を逆にピアノ版にしたような華やかさ。
強靱な打鍵、でもその中に色っぽく艶めく歌心。
“殻をつけたひなの踊り”の最後のルバートなんて、やりすぎギリギリのところで見せる、まさにエンターテインメント。
バーバ・ヤガやキエフなんて、とてもピアノとは思えない(更に言えばモノラルとは思えない)音量と迫力。
ピアノが壊れないのか心配になるくらい。
まさに、「速くて」「大きくて」「華麗な」ことが正義だった時代の演奏だなぁと、呆気にとられながらも、思わず引き込まれる。
好きかどうか、と言われるとたぶんアシュケナージの方に軍配を上げるけど、それはイコールどちらかが正しいかでは決してない。
むしろ、ここまでやり切っているホロヴィッツも一つの「正しさ」なんだろう。
有無を言わせぬ、ねじ伏せられるような説得力。
それはきっと、今という時代には希薄なものなんだろうけど(アルゲリッチにはそれに近いものを感じるけど)。
アップ! ― 2009/11/26 02:24:33
またまた無沙汰すいません。
9月16日~10月16日まで、一挙6回分更新。
残り下書きは数回ですので、これはもう何としても今月中にアップして現状に追いつきます!(宣言)
10月16日分にも書きましたが、もう少し軽やかに!を目標に。
9月16日~10月16日まで、一挙6回分更新。
残り下書きは数回ですので、これはもう何としても今月中にアップして現状に追いつきます!(宣言)
10月16日分にも書きましたが、もう少し軽やかに!を目標に。
有言実行。 ― 2009/11/30 20:46:57
宣言通り、10月28日~11月20日の全5回分をアップしました!
これでやっと追いついた。(苦笑
こうやって下書きばっか溜めてても、不良債権みたいなものでいいこと一つもありません。
読まれる方も多くて辟易するでしょうし。(苦笑
先にも書きましたが、あまり構えすぎず、多少粗くてもいいから、オンタイムでアップしていくことを目指さなくちゃ、と思います。
気になるなら後で直しゃいいんだし。
実はそれに備えて新兵器も購入したんですよ。
キングジムのデジタルメモ“Pomera”です。
これがまた、いつでもどこでも思った時に書き込める気楽さがたまりません。
まだ十分に使いこなせてはいないけど、更新には力強い味方になってくれそうです。
乞うご期待。
まあ、そんなこと書きつつ、また仕事でアップアップだとアップができない(何と下らないシャレ)かもしれませんが、それはまあその時、ということで。
とりあえず12月は昨年同様「第九三昧」企画(クリュイタンス、ケーゲル、モントゥーが未聴)と、クリスマスまでにオーマンディの「くるみ割り人形」を聴くのは必須かな。
これでやっと追いついた。(苦笑
こうやって下書きばっか溜めてても、不良債権みたいなものでいいこと一つもありません。
読まれる方も多くて辟易するでしょうし。(苦笑
先にも書きましたが、あまり構えすぎず、多少粗くてもいいから、オンタイムでアップしていくことを目指さなくちゃ、と思います。
気になるなら後で直しゃいいんだし。
実はそれに備えて新兵器も購入したんですよ。
キングジムのデジタルメモ“Pomera”です。
これがまた、いつでもどこでも思った時に書き込める気楽さがたまりません。
まだ十分に使いこなせてはいないけど、更新には力強い味方になってくれそうです。
乞うご期待。
まあ、そんなこと書きつつ、また仕事でアップアップだとアップができない(何と下らないシャレ)かもしれませんが、それはまあその時、ということで。
とりあえず12月は昨年同様「第九三昧」企画(クリュイタンス、ケーゲル、モントゥーが未聴)と、クリスマスまでにオーマンディの「くるみ割り人形」を聴くのは必須かな。
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