通勤ミュージック~090531 ― 2009/05/31 23:41:23
*ベートーヴェン:交響曲第6番・「レオノーレ」序曲第3番(ケンペ/ミュンヘンpo)
「田園」は不思議な交響曲だと思う。
5楽章ということもあるし、標題音楽であることも含めて。
もっと平たく言えば、とらえ所の難しい曲だな、という印象がある。
エロイカとはまた違う意味で。
ケンペは想像通り、描写性というか標題性をことさらに強調することはない。
それが一面では淡泊というか、少し潤いのなさを感じなくもないのだけど、それはそれで独特の枯れた味わいみたいなものをこの曲から引き出しているように思えた。
1楽章。
印象批評っぽいけど、「都会から来た人が味わう田舎」ではなく、「日常的にそこに暮らす人の感じる田舎」であるかのような空気感。
楽器もテンポも突出せず、穏やかに淡々と進んでいく。
大きく、自然な呼吸に根ざした広がり。
例えば再現部へ向かう低弦の刻みの落ち着いた運びにそれが顕著。
2楽章。
最初に書いたように、「風景描写」としては物足りないかもしれない。
歌い方もあくまで控えめ。
声高にならず、しずしずと紡がれていく小川。
中でも耳を引いたのが90~94小節のFg.→Cl.→弦の受け渡しの自然さ。
まるで一つの声(あるいは水の流れ?)のように聞こえる。
最後に呼び交わす鳥たちも、自然音のひとつとして溶け込む。
これ見よがしなイヤらしさはまったくない。
3楽章。
かなり洗練された田舎踊り。
もう少しユーモラスな無骨さがあってもいいかな?とは思うけど。
むしろ、テンポ操作がユニーク。
主部を速めに、トリオを少しゆっくりめにすることで、「テンポの差」は平板になっているけど、トリオの中低音の動きやフルートのオブリガートがくっきりと見えるのが面白い。
4楽章。
力業で押すことなく、オケが渾然一体となって嵐を表出。
個人的にはTp.やTimp.がもっと前に出てきてほしいけど、これだけ立派な風格を感じさせる嵐もすごい。
5楽章。
嵐が明ける瞬間のOb.の力の抜けた音色(ああ「また」だよ。悪いか!笑)。
過度に思いの詰まった祈りではなく、1楽章同様の「日常としての」風景がそこにある。
いつもながらに澄んで美しい管楽器。
しかしそれらの音が突出するのではなく、あくまで全体の中でひとつの色として見える素晴らしさ。
高揚感や達成感ではなく、「ただあるべき日常を愛そう」とでも言うような。
幕切れに向かって、自然と落ちるテンポが意義深い。
夕焼けに「また明日」と静かにつぶやくように。
「レオノーレ第3番」は、歌劇の中の曲と言うより、まるで演奏会用序曲のように響く。
ドラマやヒューマニズムを強調するより、くっきりと楽曲の骨組みを見せるといった感じか。
中間部の駆け上がるフルートとファゴットの掛け合いの心地よさ。
コーダの前の音量を落とした弦が、テンポも抑えてじっくりと刻む。
それゆえにコーダの明るさが際だつ。
決して派手派手しくない、大人の達成感がそこにある。
「田園」は不思議な交響曲だと思う。
5楽章ということもあるし、標題音楽であることも含めて。
もっと平たく言えば、とらえ所の難しい曲だな、という印象がある。
エロイカとはまた違う意味で。
ケンペは想像通り、描写性というか標題性をことさらに強調することはない。
それが一面では淡泊というか、少し潤いのなさを感じなくもないのだけど、それはそれで独特の枯れた味わいみたいなものをこの曲から引き出しているように思えた。
1楽章。
印象批評っぽいけど、「都会から来た人が味わう田舎」ではなく、「日常的にそこに暮らす人の感じる田舎」であるかのような空気感。
楽器もテンポも突出せず、穏やかに淡々と進んでいく。
大きく、自然な呼吸に根ざした広がり。
例えば再現部へ向かう低弦の刻みの落ち着いた運びにそれが顕著。
2楽章。
最初に書いたように、「風景描写」としては物足りないかもしれない。
歌い方もあくまで控えめ。
声高にならず、しずしずと紡がれていく小川。
中でも耳を引いたのが90~94小節のFg.→Cl.→弦の受け渡しの自然さ。
まるで一つの声(あるいは水の流れ?)のように聞こえる。
最後に呼び交わす鳥たちも、自然音のひとつとして溶け込む。
これ見よがしなイヤらしさはまったくない。
3楽章。
かなり洗練された田舎踊り。
もう少しユーモラスな無骨さがあってもいいかな?とは思うけど。
むしろ、テンポ操作がユニーク。
主部を速めに、トリオを少しゆっくりめにすることで、「テンポの差」は平板になっているけど、トリオの中低音の動きやフルートのオブリガートがくっきりと見えるのが面白い。
4楽章。
力業で押すことなく、オケが渾然一体となって嵐を表出。
個人的にはTp.やTimp.がもっと前に出てきてほしいけど、これだけ立派な風格を感じさせる嵐もすごい。
5楽章。
嵐が明ける瞬間のOb.の力の抜けた音色(ああ「また」だよ。悪いか!笑)。
過度に思いの詰まった祈りではなく、1楽章同様の「日常としての」風景がそこにある。
いつもながらに澄んで美しい管楽器。
しかしそれらの音が突出するのではなく、あくまで全体の中でひとつの色として見える素晴らしさ。
高揚感や達成感ではなく、「ただあるべき日常を愛そう」とでも言うような。
幕切れに向かって、自然と落ちるテンポが意義深い。
夕焼けに「また明日」と静かにつぶやくように。
「レオノーレ第3番」は、歌劇の中の曲と言うより、まるで演奏会用序曲のように響く。
ドラマやヒューマニズムを強調するより、くっきりと楽曲の骨組みを見せるといった感じか。
中間部の駆け上がるフルートとファゴットの掛け合いの心地よさ。
コーダの前の音量を落とした弦が、テンポも抑えてじっくりと刻む。
それゆえにコーダの明るさが際だつ。
決して派手派手しくない、大人の達成感がそこにある。
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